月のうろこを食べるへび

マトモじゃないわたしがマトモに生きようとする奮闘記。夢の記憶、どこかで見た景色、ふと感じたこと。思うままに書いていきます。

モラハラ男の依存性とそれに応えちゃう依存女子

コンサル男の9割はモラハラ男??

 最近、私の周りの人間関係が激変しております。

 

今までご縁がなかった方と素敵な出会いがあったり、なぜか以前知り合いだった方から急にいい情報が入ったりとなんやかんやございます。

 

良いことももちろんあるんですが、今まで触れていなかった面倒なこともあるわけで。

 

そこで最近私の中でテーマになっているのが、依存性とかモラハラとか、そういう類の話です。

 

papuriko.hatenablog.com

 

「 コンサル男は冷血でモラハラ」みたいに書かれてますね。

「彼らは人の皮を被ったAIだ」とまで笑

 

ま”ぁ、実はその気持ち、私も分からなくない。

 

気持ちっていうのは、その”男”の方ね。

 

私も”(自分も含めた)ひとの心に非寛容、無慈悲”になれて、しかも”感情を理屈と自制心で処理しがち”な水瓶座なので。

 

私の救いは、性別が女だってこと。

 

女で↑を生き抜こうと思ったら、それこそ女を捨てなきゃいけないわけですよ。

女を捨ててばく進する必要があって、女としては評価もされなきゃ支持も理解もされないわけ。

 

ところが、男性で仕事が出来るひとなら、それで通っちゃうのよね。

それは、実は幸いなようで、救いがないってことでもある。

矯正されないまま、進めちゃうから。

 

おまけに男性はプライドの生き物。

 

苦しさや寂しさをプライドで隠そうとすればするほど、支配的になり攻撃的になり、より非寛容で冷血になる。つまり、モラハラ男の出来上がり。

 

女性と違うのは、それでも仕事さえ結果出てれば、社会的には認められちゃうもんだから、自分じゃプライドの鎧を脱げないまま、気付いたら変化が怖くなっちゃう(人の話が素直に聞けない)年齢まですすんじゃうのね。

 

ここにくっつくのが、自己肯定感の低い女子。

言われるまま、求められるまま、尽くしちゃう。

 

めっちゃいい子で、そこそこ地頭がよくて気が利く子ほど、尽くし過ぎる女になりがち。根性あればなおさら「なんとかしちゃう」から。

 

でもだめ、それって自己犠牲だし、相手のためにならないってのも自覚すべき。

何もかも受け入れるのが、相手のためになるわけではないのですよ。

 

依存的、男と女の関係

 

ちょうど、こんな記事なんかもあったりしてね。

 

papuriko.hatenablog.com

 

結局それも、男女のバランスの問題だから、お互いが納得なんだったらいいんだけどさ。ひとつの学びの段階とも解釈できる。

 

ただ、まぁ。端から見てると辛いし、うっかり巻き込まれちゃったりしたら、なんだか知らないまま「きっつい」状況になったりする。

 

心理学的にいえば、この状況は「コントロールドラマ」っていうやつです。

 

自分の好む役回りを相手にさせてしまう。

相手に、自分の満たせないところを満たさせてしまう。

 

例えば、試着室での会話。

「着てみたの~♡どうかな?」って言われて「あ、かわいいね♡」とか、もし似合わなければ「それもいいけど、こっちの方が似合うかもよ♡」っていえばいいだけなのに、(ほんとは似合ってるのに)「おまえ、そんなん似合わねーよ*」って言ったり、「子豚ちゃんみたいだね」とか(わざと引っかかるような)捻くれたことをことを言って反応を楽しんだり。

 

(*言い返せる関係なら、まだアリ)

 

これもね、夜のプレイだけならいいですよ。お互いが満足なら、夜に限りいいと思う。

 

でも、ごくごく日常の生活でやってしまうのは、これはもう、未熟さだと自覚した方がいい。

 

だって、それはエネルギーの搾取だから。相手が子供なら、トラウマ作っちゃうやつだから。

 

女性なら、受け入れることも、しなくていいというか、もっと言うと相手のために受け入れてはいけないのです。受け入れるのは、共依存(きょういぞん)という別の形の依存症です。

 

依存っていうテーマ

はぁ。つらつらと書いてしまいました。

 

こんなこと書いちゃうのも、私ががっつり依存症だった過去があるから。

 

自覚なくて、頑張ってるのに苦しくて苦しくてしょうがなかった経験があるから。

 

もし、モラハラ男に苦しんでる人がいたら、それは「受け入れなくてOK」と自分に許可しましょうね。

 

 

さてさて、今の私に戻って。

そうなのです。お気づきのとおり、私最近、モラハラ男に遭遇しましたのです!

 

いい感じの人、なんだけど、実はかなりのモラハラ男だって、気づいてしまったのです。

 

なんか、変だな~って思ったよね。

何で出会ったかなー。わたし、依存の回、卒業したはずだったのにな。

(まぁ、まだ何かしら学ぶことがあるのでしょうね。)

 

ということで、わたくし「無条件に受け入れる」の回は卒業しましたので、今度は「向き合ってみる」に挑戦しようと思います。

 

何か見えてくるかも。

 

少しだけ気づいているのは、相手の、子供の姿。

素直に表現できず、寂しさを共有できず、拗ねたままになっている少年。

 

少年と、お話する必要があるかも知れません。

 

進展ありましたら、また書こうと思います。

 

どうなるやら。

 

 

 

 

 

日記: 2015年12月5日 ~インナーチャイルドのワークと創造性~

日記

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今日はすごく、

穏やかな気分。

 

走り回る子供たちの声を聴きながら

美しい夕日を眺めた。

 

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しばらくの間、私が感じていた

”なんだか自分がおかしい”感じは

 

これまで属していなかった世界に入った違和感。

 

新しい感覚に馴染めていないための

得体の知れないむずむず感。

 

 

その世界は

悪いものでも怖いものでもなくて

むしろ、より一層”自分”でいられる

喜ばしい場所。

 

 

少し前から、

見えていたビジョンがある。

 

 

それは、赤子だった頃の私。

 

孤独と寂しさを愛してる

 

私の実家は東北の田舎で、

生まれたばかりのころはまだ

建て替え前の古い家だった。

 

一部屋分くらいあるんじゃないか

っていう広さの玄関。

 

登り口が二段構えになっていて

下の段はちょうど腰かけられる高さ。

 

その玄関から襖隣の居間は、

昔ながらの作りでいやにだだっ広く

隙間風なのか、すこし肌寒い感じがする。

 

もちろん木造で、家の中はいつも薄暗い。

 

遊びに来た友達に

”おばけが出そう”と言われたこともある。

 

本家が宿屋をやっていたというから

広い玄関と居間は

その名残かもしれない。

 

物置と化した二階の部屋割りも

そんな感じだった記憶がある。

 

赤ちゃんの私は、居間にいる。

 

肌寒く、薄暗い部屋の端っこに

一人寝かされた私。

 

周りには誰も人がおらず、

私は一人きり。

 

人の気配すらない。

 

急に目覚めた私は

心細くて、大きな声で泣きわめく。

 

でも、近くには誰もいない。

 

泣いても泣いても

声が届かず、寂しさと怖さが加速する。

 

しばらくないてみたものの

いつの間にか泣くのを諦め、

寂しさを抱えたまま、また眠りについた。

 

その後、再び目覚めた時の記憶はないが

おそらく誰かに抱きかかえてもらったのだろう。

 

それでも、

その時に覚えた寂しさと怖さは

誰にも伝えられず、誰とも共有できなかった。

 

そのために、私は生まれて初めての孤独感も覚えた。

 

記憶にあるあの出来事は

私の中に眠る寂しさと孤独感を

生んだきっかけだった。

 

寂しさと孤独感を抱えながらも

私は”愛されていると信じたい”ために

 

寂しさと孤独感を

愛情と結びつけてしまった。

 

「愛とは、寂しくて孤独なもの」

 

それ以来、

私は寂しさと孤独が

とても大事なもののように思え

手放せなくなってしまった。

 

 

セラピーなどにおける

インナーチャイルドのワークでは

 

イメージの中で、

自分の中のこの子供を抱いて

感覚を共有する。

 

「寂しかったね、怖かったね」

 

その子の求めていた方法で

気持ちを共有し、癒してあげる。

 

それによってその子供は解き放たれる。

 

自分の中で引っかかっていた部分が解け

”作り上げた思い込み”が解けることで

現実的に変化が起きる。

 

私のこの場合は

寂しさや孤独感を手放し

愛とは、寂しくて孤独なもの”という

思い込みを開放する。

 

セラピーの趣旨は、

それによって今まで抱えていた

私の内面のトラブル

(人と良好な人間関係を築く抵抗感)

が薄まるだろう、というようなもの。

 

以前、このような方法で

赤子を癒していたが

まだ消えていなかった。

 

昨日も現れたのだ。

 

 

創造性の種

 

赤子が訴えているのは

寂しさや孤独感だけじゃないかもしれない。

 

そのことに、昨日気が付いた。

 

それは創造性であり

表現欲求だった。

 

気付いてほしいと訴え

泣きわめいていたのは

 

自分自身のもっと深い部分の

魂と繋がった欲求みたいなもの。

 

 

それを発現させる方法にも

どうやらたどり着けたよう。

 

無理なく抵抗なく

一歩を進められそうだ。

 

 

私の中の赤子は

ようやく泣くのを止めてくれた。

 

身体が足の先まで

じんわりと温かく

なんの不安もない。

 

むしろあるのは喜びで

特に何をしていなくても

(スーパーで買い物かごを持って歩いていても)

ひとりでいても

携帯がなくても

 

満足していて穏やか。

 

余計なものも欲しくないし

食欲もあまり湧かない。

 

派手なことをしなくても

私は私で居られる安心感がある。

 

地に足が付きながら

心が満たされているって

こういう感じなのかもしれない。

 

新しい感覚、ようこそ。

 

ペンネームを通して得たもの

 

私のペンネームは

半年ほど前、新たな試みとして作った。

 

文章を書くにあたって

反社会的なことも含め、

キワドイ事を書く気がしていたからだ。

 

自分(本名)から離れて

それまでの”現実”からの囚われを外し

思いっきりやってみたいと思って始めた。

 

その半年間の試みは

思っていた形には収まらなかった。

 

当初、思い描いていた

キワドイ世界を探求することには

もう情熱がなくなった。

 

*1

 

 

代わりに赤子に出会い

思考ではない、魂の私と出会った。

 

一度、自分じゃないものになって

ふたたび自分に戻ってきた気がする。

 

おかえりなさい。

 

そして、初めまして。

 

 

*1:(実は、少しあるんだけども、

 

 それは楽しみというか。。また別の話で。)

スピリチュアルの傾倒とか、自然との共存とか

いやーー、

スピリチュアルとか神事とか

傾倒すると大変(汗

 

どうも自分の調子がおかしいし

 

専門にやっている人の

矛盾が見えてきちゃう気がして

なんだかなぁ。って思う。

(相手は鏡って視点もあるけれども

 納得できないことはあるよね)

 

私が思うに、

スピリチュアルとか神事をする人って

大学の研究者に似ている。

 

細胞の自己崩壊の仕組みを

何十年も研究して

ビタミンの量の変化っていう

1側面からのアプローチに

何年も費やす。

 

そんな感じって、常人にはできない。

 

その世界に自然と惹きこまれ

生活も違和感なくなんとかなっちゃって、

いつの間にか役割を担っていたような人。

 

外から見ていた人が

ちょっとした憧れでやってみようと

出来る世界じゃない。

 

その世界にいるには覚悟が必要で

その人は人生をかけて取り組んでいる。

 

言葉を変えると「選ばれた人」。

ってことになるのかもしれない。

 

なので、バカにするつもりも

軽視するつもりもないけれど

 

私の場所じゃないんだろうな。

とは思う。

 

私は人間を生きたい。

 

テーマになるのが

「自然」。

 

私は自然と対話して

成長したような子で、

 

自然と共存したい、って

いつも思っていた。

 

それが、あるべき姿じゃないの?

って思ってた。

 

でもどうやら、

自然であればいいってわけじゃないらしい。

 

自然の世界のルールと

人間の世界のルールってのは

ちょっと違っている。

 

自然と共存しているのは

動物や植物の世界。

 

完全な共存で、

ほとんど融合している。

 

人間である”らしさ”ってのは

そこから一歩出たところ。

 

人間は、自然の中に不自然を作り出し

そこで学び成長していく生き物。

 

そう、言われている。

 

不自然を作り出すなんて

なんてことだろう

(バカなんじゃないか)

って思いもするけれど、

 

人間として成長するには

不自然が必要なんだそう。

 

‐‐‐‐‐‐‐

 

こんなことを言っていると

”考えすぎ”って言われる。

 

私が考えてしまうのは、性。

 

ぼーっとしていても

考えてしまう。

 

来年はどこにたどり着くのか。

 

 

このブログの世界は概念の世界。

 

外側には実社会がある。

 

どちらも必要で、

来年はどちらももっと、深くなるかな。

 

 

いいかげんなもののおわり

本物しか、残らなくなってきている。

 
誠実に真摯にやっていた人には朗報。
 
いいかげんで、
なんとかなってしまっていた人は
 
自分の在り方を見直すとき。
 
そこでちゃんとやれるなら
姿勢を正した方がいいし
 
自分がそこでは
誠実になれそうもないなら
 
自分が物事、人と
真摯に向き合える場所に
移った方がいいかもしれない。
 
 
自分じゃないものも
残らなくなってきている。
 
自分の中に取り込んでしまった
自分じゃないもの。
 
それらがどんどん剥がれ落ちている。
 
自分じゃないものを抱えていたなら
抱えている腕のあいだから
崩れて落ちていく。
 

氏神様のお参り~昔はおじいちゃんおばあちゃんが伝えてくれていたこと~

氏神

 

日本なら、どこの土地でも

氏神様(うじがみさま)というのがある。

 

すべての住所に対して

その土地を守っている神社が割り当てられており

 

すべての情報は

神社庁にて管理されている。

 

管理は各都道府県別になっているので

問い合わせ先は各都道府県ごとに異なる。

 

↓全国の神社庁一覧

氏神様の調べ方 - 開運さんぽ

 

私は現在の住所に今年の4月に引っ越したが

実は、氏神様にまだご挨拶をしていなかった。

 

というのも、近くに水神様があり、

そこに行けば問題ないだろうと

ろくに調べもせずに考えていたからだ。

 

そんな私に昨日、お叱り*1があったのだ。

お詫びとご挨拶、正式参拝をするようにとのこと。

 

日本神道のルール

 

日常的に神事を行っている方の話では

一番の足元は『ご先祖』と『土地の神様』。

そこに筋を通さないとエネルギーがグランディングせず、

何をやってもうまく回らないのだということ。

 

日本神道には日本神道のルールがある。

自分の土地神様さまが玄関口となり

そこから地区を管轄する神様に伝言され

明治神宮など大きな神社に行く様になっている。

 

人間界で会社の社長の前に筋を立てて行くように、

見えない世界にも同じシステムがあり

普通の人がいきなり明治神宮に行っても相手にされない。

 

これをしない事には何処で何をしても通らないし、

行けばいくほど、かえって苦しくなると。

 

そこで、その方のアドバイスの元、

「今までおろそかにして来た事へのお詫び」

「インドに行って来た事の報告」

「これから神様の筋を通すとのご挨拶」

 を行ってきた。

 

頂いたメッセージ

(時系列で読みにくいと思いますが、まとめると細かいところがだいぶ省略されてしまうので、このまま記述します)


<参拝前>
門の前でご挨拶。風が吹いて答えてくれるも、少し待たされる出来事あり。
一呼吸おいてから入れました。
整った"キレイな"神社という印象。
隅々までほころびがなく、丁寧に守られているようです。

 

<本殿にて>
一度目の参拝:
最初、本殿の前に立った時、頭上で複数のカラスが鳴き飛び回っておりました。
お詫びとご挨拶をしたところ、風が強く吹きました。
その後、いくつか言葉を頂きました。

 

*最初に頂いた言葉を忘れちゃいました!メモ必須ですね。

土地に根差して生きるのは、そんなに難しいことじゃないのよ
(土地に根付けないところがあって、いつも転々としている私に。)

 

「今月の"生命の言葉":神道に書籍なし。天地をもって書籍となし、月日をもって証明となす。神道には経典がない。自然から学び、人々が伝えることで教えとするのである。)」

 

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本殿は、なんだかお母さんのような、おばあちゃんのような、厳しいけれどあったかい女性という印象でした。

目をあげると、実家の家紋に似た木瓜の紋が!
ご先祖にご縁のある神社なのかもしれません。

後で宮司に紋について聞いたところ、木瓜ではなく梶(かじ)だそうです。


末社厳島神社にて>
美しい錦鯉がいて、近くには鳩。「龍と鳥」が頭に浮かびました。
門から入り手を合わせると強めの風が吹き始めました。
ここではない少し遠くから来てくださった感じ。

 

あなた(私)は本当の感覚(感情)を恐れているようですね。開くのを怖がっている。恐れなくともよい

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末社:稲荷神社にて>

お稲荷さん(狐)は個人的にどうも苦手で、すごく怖いです。
いつもはお稲荷さんは避けちゃうのですが今回は導いてくれた方の励ましがあって参拝出来ました。

 

恐れるものの中に玉(ぎょく:本当に求めるもの、真に美しいもの、純粋なもの)がある。

恐れを避けるように焦って進まなくてもよい
(何かに気づかないために今を無視して先を急ぐ癖がある私に。)

 

神も人間も同じである。そのように心得て、日々謙虚に精進せよ
筋を通すとか、会話をするときとか、生きていくうえで当たり前にするような気遣いについての意。)
(補足:私は人間ってものが理解しにくくて自分を含めた人の心に非寛容、無慈悲になることがあるので。理屈と自制心で感情を処理しがちなのは、水瓶座の特徴らしいです。私には課題の多い学びであります。)


<再び、本殿にて>
呼ばれたような気がして、末社に参った後に再度参拝:
*最初の言葉を忘れた~(失敗した~)と思っていたら
「(笑って?)大丈夫、またお話ししましょう。いつでも来なさい」と。

 

<正式参拝について>
宮司さんに伺ったところ、快く引き受けてくださいました。
ちょうどお財布に5千円札しかなく、それを出したところ「では、せっかくなのでご祈祷しますか」と。
神恩感謝にてご祈祷していただくことになりました。

 

ふと浮かんだこと。「待つことを、学んでいるのだよ
(待つのが苦手な私に。苦手なのに、じっと待たなければいけない状況に何度もおかれていました)

「これらすべてを、彼らに伝えなさい(みなさんのこと)。私(それぞれ)が感じたことが私(その人)の真実。人によって、真実は違う。

 

これからのこと

 

インドで大仕事をしてから、

どんどん自分の感覚が変わっている。

 

今世でやるべきことをひとつ、

終えたような感じだ。

 

これまでは、私の意志じゃないものに

翻弄され、理屈では理解できない状況に

陥ることもしばしばだった。

 

実家、祖先のカルマ、住んだ土地、

長時間滞在することになった土地、

時には関わった人々の浄化と昇華を

担わされていんじゃないかと

感じることも何度もあった。

 

インドでの旅を終えて

 ようやく、自分自身を生きれるという感覚。

 

20年か、25年か、そのくらいの年月をかけて

ひとつのことを為した感覚。

 

背負っていたものが徐々に軽くなり

感覚も思考も、クリアになってきている。

 

このブログも、どういったことを書いたらいいのか

正直よくわからないでいる。

 

しばらくは、感じた事を素直に書いていこうと思う。

 

今までとは、だいぶニュアンスが違うけど

また新しい気づきがあるだろう。

 

導いてくれたすべての存在、

最近ご縁のあった、阿蘇・高千穂・熊野の神様。

インドの神々、近所の鷲神社さんに感謝したい。

 

そしてとても大事なのは、

神様よりも何よりも

今を生きている人間の皆さん。

 

導いてくださった方、

出会ってくださったすべての方のおかげで

今の私があるのだと、

素直に思える。

 

昔はおじいちゃんおばあちゃんが伝えてくれていたこと

 

昔は、こういったこと(神様とのかかわり)は

家長が率先して執り行い

自然と家のものに引き継がれていったはずである。

 

それは、自分の欲を見たそう

願いを叶えてもらおうとするエゴでなく

 

純粋に土地を守りたい気持ち、

家族や仲間の幸せを願う気持ち。

 

実はそれが社会の下支えとなり

国を守っていたんじゃないかと思う。

 

見えないものに感謝することを

軽視してはいけないと感じる。

 

言葉だけじゃなく

実際に行動を起こすこと。

 

それは派手なことをするのではなく

日々の細々としたことを

大切に執り行うこと。

 

大きな神社(聖地)にばかり祈るのではなく

まず土地の神様に祈り、報告と感謝を伝え

導き、支えてもらうこと。

 

「人間は神」というけど

「神も人間」と認識をもちたい。

 

日々、謙虚に。

穏やかに。

 

新たな気づき

 

ああ、そうか。

これってすごく「普通」のこと。

 

一回りして

「普通」に戻ってきた。

 

普通のことが普通に出来るって

なんて有り難いことだろう。

 

以前は気が付かなかったこと。

 

ぐるぐると回っているようで

私も確かに進化、しているのかもしれない。

 

 

*1:体感として、頭が痛い、背中が苦しい、物事がどうもうまく運ばない、というようなこと。言葉として伝えられるのは具体的な行動の指南であり、お叱りではなくむしろ救い

酉の市と熊手の話~”幸せ”という感情は自ら意識して感じるもの~

酉の市と熊手の話

 

今日は、11月の酉の日。

各地の鷲神社(大鳥神社)では酉の市が開かれています。

 

http://omatully.com/wp-content/uploads/2015/06/torinoichi3-1024x768.jpg

http://omatully.com/torinoichi-tokyo/

 

5日(木)、17日(火)と続いた今年の酉の市も

いよいよ本日29日(土)で最後。

 

土曜日だから、昼間の人出が多いかもしれませんね。

 

早朝、近くの大鳥神社に行ったところ

熊手のお店や屋台はまだ営業前で、

お店のお兄さんたちは立ち話中。

 

平日は夜に集中するけど、

休日は客足が分散されていい、なんて

話しているのが聞こえてきました。

 

福を掻き込む熊手を買って

来年もいい年を迎えましょう。

 

 

なお、熊手のほかに

升(マス)を売っているところもありますね。

 

一説によると、女性は升を買うと良いそうです。

(受け入れるという意味)

 

あくまで一説なので、

飾りやすさで選んでもいいと思います。

 

買った後は、

すぐに袋に仕舞わずに

 

あえて高い位置に熊手をもって境内を歩くと

更なる福を招いてくれるそうです。

 

一年で一番賑わっている日の

境内の気を掻き込む、といったところでしょうか。

 

縁起担ぎですが、本当にご利益があるかも知れませんね。

 

今日の言葉たち

早朝に参拝を済ませたからでしょうか。

 今日はいつになく穏やかな気持ちで1日を過ごしています。

 

そんな私に届いたメッセージがどれも素敵だったので

ご紹介しますね。

 

生命の言葉 より

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恩を受け 恩を恩ともおもふなら

恩を報ずる 心あるべし

 

恩を受け

その恩を本当に感謝しているなら

常にその恩に報いるだけの

心構えでいるべきである。

 

とのこと。

 

有り難く、身につまされるような言葉です。

 

そうは言っても

 

生きているなら

ただ息を吸って吐いているだけ以上の事をして

人に活力ないし喜びを与えたいなぁ。

 

そんなことを思っている私に、

さらなるお言葉。

 

某カウンセラーさんより

命あるすべての存在のために

自分の個性を活かしていくこと、
人としての生き方を学び、

社会のなかで自分の可能性に

チャレンジしてゆくことで

あなたの中にある無限の可能性に

気づいていけるでしょう。

 

そう、そうだよね。

 

命あるすべての存在のために自分の個性を活かしていくこと」

 

って、すごく素敵。

 

彼女曰く「個性というと、あるようなないような感じがするかもしれないけれど脳医科学的にみると、脳の使いかたが個性なのです。」

 

個性は脳の使い方なのだそう。

それも、分かるなー。

 

さらに、先日友人がくれたメールを思い出す。

 

愛すべき友人からの言葉

Remember that every day

is a precious chance to be happy.

 

(毎日、一日一日が、幸せになるための

 貴重な機会だってことを忘れないでね)

 

よく、歌詞にもなっている

”BE happy "って言葉。

 

これ、もしかしたら

うっかりピンと来てない人もいるかも知れないですが

 

BEってね、動詞なんですよね。

 

つまり、happyな状態にあるための

”積極的、能動的な”関わりなんです。

 

受け身じゃなく、自ら動いて

happyな心理状態にする、ってこと。

 

それが”BE happy”の意味。

 

(と、私は解釈してます。

 急に不安になってきたけど、たぶんあってる)

 

つまり、何が言いたいかっていうと

幸せな状態(心理状態)ってのは

受け身で待っているものでも

 

状況や感情をごまかして

幸せだと思い込むことでもなくて

 

本当に、幸せだって感じられる状態を

自分で作っていく、ってことなんですよね。

 

それを、勘違いしてはいけない。

 

いっぱい笑って

いっぱい泣いて

納得できなかったらとことんぶちまけて

でもちゃんと愛をもって接して

想いを伝える努力をしていくこと。

 

毎日毎日の、その積み重ね。

 

それしかないんですよね。

 

再び、

Remember that every day

is a precious chance to be happy.

 

 

書いてるだけで幸せになってきた(笑)

 

 

ああ、そうか、先の言葉にも

同じような意味が含まれていますよね。

 

恩を受け 恩を恩ともおもふなら

恩を報ずる 心あるべし

 

何度も回って、

いつも新たな発見がある。

 

言葉っていうのは、

本当に不思議です。

 

 

皆様どうぞ、

今日も素晴らしい一日をお過ごしください。

 

 

来年の計画作成中~アストロマップと夢リスト100~

2016年のビジョン

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来年の計画を立てています。

 

今の私はリセットされてしまったので

来年の計画というよりはむしろ、

 

これからの生き方について

もう一度考え直しているようなもの。

 

私の在り方とビジョンなど

この先数十年に繋がる流れを作る。

 

来年は、そのために出来ることを

ひとつひとつ、形にしていく年。

 

プランシートを何度か見直して

だいぶ整理されてきた。


時間をかけて考えていると不思議なもので

記憶の底の、さらにそのずっと奥に眠っている想い、

「いつかきっとやりたかったこと」を思い出す。

 

すっかり忘れていたけど

かつては熱く願っていたこと。

 

理屈では説明できないけど

どうしても、やらなきゃいけない気が 

していたこと。

 

そのうちの少なくない数が、

来年叶いそうな予感がする。

 

「やりたかったこと」はたくさんあるけど

いまここで具体的に書くと、

実現前に満足しちゃいそうなので(笑)

実現の直前か実現後に
お伝えしようと思います。

 

今回、

ビジョン作成の参考にしているのが

「アストロマップ」と呼ばれるもの。

 

占星術の手法を

天体ではなく、地球上に当てはめたところ。

 

詳しくはまた書くけど、

目からウロコ、な体験が出来そう。

 

これまでにご縁があった土地を調べると

しっくりくるわ、しっくりくるわ。

 

面白そうなので

色々と体感レポも書いていきたいと思っています。

 

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そうそう、棚卸しついでに

夢リスト100も、久しぶりに作ろうかな。

 

15年ぶりの 同窓会

 

年始には、

生まれ育った土地で

中学の同窓会がある。

 

みんな、どんな風になってるのかな

って思いながら

 

ふと、自分について考えた。

 

今の私を、

どうやって説明しようか。

 

「優等生」だった私。

「いい子」していた私。

 

今の私には「安定」なんてさらさらないけど、

こっちの方のが「生きてる感じ」がする。

 

そんなこと言っても

伝わらないんだろうな。

 

 私は確かに「わかりやすく」はない。

 

ストロマップとか言っちゃってるし。

 

調べまくって、

なんならアフリカまで行ってみようかと

本気で思ってるし。

 

田舎じゃ、絶対話せないわ。

 

 

【夢リスト100】

1.アフリカで気球に乗って草原を眺める。

2.。。。。(つづく)