子供を産むということ、その恐怖
子供は欲しいか欲しくないか
端的にいうと
私が子供を産もうと思えないのは
私が子供に世界の素晴らしさを教えてあげられる自信がないから。
子供を授かる段階になったら変わるのかもしれないけど、
今、想像すると、受胎する前に私は、
子供に対してこう言うだろう。
「大変な世だと分かっていて、
それでも産まれて来たいなら産まれてきなさい」
私はよく育てられたのか
私は出会った人から時々、
「大事に育てられたっていうのがわかるわ~」
と(おそらく好意をもって)言われる。
でも、子供のころは自分や環境を恨んでいたし
大人になってからも、
私はよく育てられたのか
長い間わからなかった。
確かに「いい子」ではあったけど、
それは偽りだった。
本音で話せる相手なんていなかったし、
本心を語れば語るほど
不思議がられて煙たがられた。
そのせいか、
自分がわからなくなった。
自分を再び獲得していく過程で
あまりに必死に生き過ぎて
たくさん、道を踏み外した。
私の両親は、私の過去を知らない。
愛情という名の自覚なき虐待、搾取
最近、私の心の闇を紐解くような記事に出会った。
TBSのドラマ『37.5℃の涙』について書かれた記事だ。
「母に支配される娘」のどうにもならない葛藤
愛情という名の心理的虐待は根が深い
世の中に搾取しない親はいません。例えば、親の虚栄心から娘をピアニストに育てる、という場合、それは搾取ではないでしょうか。一見すると搾取には見えませんが、これは、「あなたの才能を伸ばすのは、あなたのため」という言葉によって、平凡な女の子として生きる、娘の自由を母が奪う行為なのです。
TBSテレビの連続ドラマ『37.5℃の涙』(毎週木曜9時放送)の主人公の母のように、子供に介護をさせるのはわかりやすい搾取です。他には「家事をさせる」「自分の愚痴の聞き手にさせる」「夫婦間に防衛壁として入らせる」といったことがあります。
夫婦間の防衛壁とは、夫が怒鳴り始めると間に娘を置くとか、夫が夫婦関係を求めてきたら、娘の部屋に逃げ込み断る、などです。「パパやめてよ」と娘が言うと、「じゃぁ、お前が代わりにやるか」といわれた子どもも何人もいます。虐待とはこのように子供からエネルギーを奪ってしまうので、基本的には搾取といえます。
母親の搾取、過干渉、過保護。
そうか、これだったのかもしれない。
私の家では介護の必要はなかったけど
・重い荷物をいつも持たせる
・代わりに力仕事をさせる
・愚痴の聞き役にさせる
・夫婦の間を取り持たせる
これらは日常的だった。
本人の自覚はおそらくなく、
当然のように、私に役割を持たせた。
彼らは彼らなりの正義と真理に従って
子供である私と向き合っていたのだろうが
私からすればそれは、
私目線ではなくあくまで彼ら目線であり
お互いの関係性を築くというよりも
単なる価値観や義務感の押しつけだった。
私は両親に対して
「もっと私を理解してほしい。
少なくとも理解する努力をしてほしい」
と切に願ったけど
産まれてから数十年経つ今も
おそらくそれは実現されていない。
子供を育てる過程で彼らが覚えたのは
私が原因で生じる彼らの感情を流す方法、
つまり、なんとかその場をやり過ごす方法だけであり、
お互いを理解し成長しようという交流の方法は
未だに習得されていない。