月のうろこを食べるへび

マトモじゃないわたしがマトモに生きようとする奮闘記。夢の記憶、どこかで見た景色、ふと感じたこと。思うままに書いていきます。

自分を肯定できているか?

自分を肯定出来る幸せ

 

「自己肯定感」

 

これを持てたら、どこにいても何をしていても

人は幸せになれると思う。

 

いじめ問題

 

例えば、「からかわれる」という行為について考える。

 

自己肯定感の弱い人、すなわち

自己否定感の強い人が

からかわれたとき、

 

その人は自分が

いじめられた、と思うだろう。

 

もし、自己肯定感の強い人がからかわれたら

「ちょっとー、やめてよーーー笑」

(やだなー笑、やめてくださいよ、先輩笑)とでも返して

彼はおそらく人気者になりえる。

 

いじめられるような人は、

見方を変えると人の興味を引く魅力を

潜在的に持っている人とも言える。

 

それを、どう捉えるかによって、

現れる現象は変わるだろうと思う。

 

これは本人の問題というよりも

幼少期に起因するのだろうから、

もちろん自分を責めないでほしい。

 

とはいえ、周りのせいにしても解決にはならない。

 

もしそこに問題を感じる人は

人生における課題であると認識して

内面の深いところを見つめなおし

多くを学んでほしいと思う。

 

いじめには、暴力を伴うような

個人の許容範囲を超える場合もあると思う。

 

それもはじめは

ほんの些細な出来事に端を発しているのだろう。

 

最初からその現象に気づけるわけでなく

気づいたときには対処できないほど

大きな現象になっている場合は、

 

場所を変える、そこから離れるのも

実際は大事だろうと思う。

 

仕事観

 

自己肯定感の強弱は、

自分を取り巻く環境への依存度として

仕事に対する姿勢にも表れるだろう。

 

例えば、出来の悪い先輩社員を見たとき

 

自己否定感の強い人は

「ここにいても、学ぶことがない」と

諦めや失望を覚えるかもしれない。

 

対して、自己肯定感の強い人は

「ここなら、勝てる」と、失望よりもむしろ

期待感を強く持つだろう。

 

先に述べた

自分を取り巻く環境への依存度」とは、

自分という存在を環境よりも大きく見るか小さくみるか。

 

つまり、

環境が悪ければ自分は何も出来ないと考えるか(自己否定感)

環境が悪くても自分は事を為せると考えるか(自己肯定感)である。

 

前者は、どこに行っても前例を超える仕事はできず

後者は、どこに行っても創造的な仕事が出来るだろう。

 

もちろん、これには他の多くの要素も絡むため

やや乱暴な仮説だが、

自己肯定感の重要性を

なんとなく感じてもらえる内容だと思う。