月のうろこを食べるへび

マトモじゃないわたしがマトモに生きようとする奮闘記。夢の記憶、どこかで見た景色、ふと感じたこと。思うままに書いていきます。

内と外の境界線

公私を分けるということ

 

家族関係が良好になり、

見えてきたことがある。

 

それは、

公と私、つまり外と内の境目だ。

 

光がなければ影もないように

何かが存在するためには、

別の何かを必要とする。

 

いままでの私は、

公私があいまいになりがちで、

どこまでが自分でどこからが他人なのか

わからずにいた。

 

境界を引こうと意識すると、

他人行儀だと相手に違和感を与えるし

 

では境界を取り払おうとすると

相手に不快感を与えるか

場合によっては信頼を失い雑な扱いを受ける。

 

私にとっても、

境界を意識しすぎれば

自分の存在が無に近づくようで虚しくなるし、

 

境界を取り払い相手に寄り添えば

そのときは安心はするが

相手の反応に一喜一憂して騒がしい。

 

一体、どうしたらいいか、

悩みに悩みすぎていつしか

もう考えることも忘れていた。

 

 

ところが、

ここにきて家族という存在を

自分の深い深いところに確認できた。

 

つまりは、”内”が私の中で発言した。

 

家族という自分の居り処が

こころの奥に存在し始めると

妙に落ち着き、

外の世界に寛容になれる。

 

寛容になれるというのは、

言い換えるならば

必死に自分の居場所を

認めてもらおうと

気を張る必要がなくなるということだ。

 

公私の別を付けるのは、

社会生活を送るうえで必須の要件だろう。

 

しかしながら、

外の世界に自分の存在を認めてもらおうとすると

こころの中では切迫感が生まれ、

しかもそれが24時間365日続くので

どうしても苦しい心情になる。

 

対して、

内の世界である家族というものが

自分の奥で認識できていると

自分の存在意義はそこで確立されているため、

急いで認めてもらおうとする必要はなくなる。

つまり、心に余裕が出てくる。

 

余裕がある方が、

一つ一つの選択にしろ行動にしろ

うまくいくもので、

 

内の世界が存在することが

結果的に外の世界での存在も強めることに

繋がるように思う。

 

 

光と影。

 

内と外。

 

 

相手があるから

こちらも在る。