月のうろこを食べるへび

マトモじゃないわたしがマトモに生きようとする奮闘記。夢の記憶、どこかで見た景色、ふと感じたこと。思うままに書いていきます。

日記: 2015年12月5日 ~インナーチャイルドのワークと創造性~

日記

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今日はすごく、

穏やかな気分。

 

走り回る子供たちの声を聴きながら

美しい夕日を眺めた。

 

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しばらくの間、私が感じていた

”なんだか自分がおかしい”感じは

 

これまで属していなかった世界に入った違和感。

 

新しい感覚に馴染めていないための

得体の知れないむずむず感。

 

 

その世界は

悪いものでも怖いものでもなくて

むしろ、より一層”自分”でいられる

喜ばしい場所。

 

 

少し前から、

見えていたビジョンがある。

 

 

それは、赤子だった頃の私。

 

孤独と寂しさを愛してる

 

私の実家は東北の田舎で、

生まれたばかりのころはまだ

建て替え前の古い家だった。

 

一部屋分くらいあるんじゃないか

っていう広さの玄関。

 

登り口が二段構えになっていて

下の段はちょうど腰かけられる高さ。

 

その玄関から襖隣の居間は、

昔ながらの作りでいやにだだっ広く

隙間風なのか、すこし肌寒い感じがする。

 

もちろん木造で、家の中はいつも薄暗い。

 

遊びに来た友達に

”おばけが出そう”と言われたこともある。

 

本家が宿屋をやっていたというから

広い玄関と居間は

その名残かもしれない。

 

物置と化した二階の部屋割りも

そんな感じだった記憶がある。

 

赤ちゃんの私は、居間にいる。

 

肌寒く、薄暗い部屋の端っこに

一人寝かされた私。

 

周りには誰も人がおらず、

私は一人きり。

 

人の気配すらない。

 

急に目覚めた私は

心細くて、大きな声で泣きわめく。

 

でも、近くには誰もいない。

 

泣いても泣いても

声が届かず、寂しさと怖さが加速する。

 

しばらくないてみたものの

いつの間にか泣くのを諦め、

寂しさを抱えたまま、また眠りについた。

 

その後、再び目覚めた時の記憶はないが

おそらく誰かに抱きかかえてもらったのだろう。

 

それでも、

その時に覚えた寂しさと怖さは

誰にも伝えられず、誰とも共有できなかった。

 

そのために、私は生まれて初めての孤独感も覚えた。

 

記憶にあるあの出来事は

私の中に眠る寂しさと孤独感を

生んだきっかけだった。

 

寂しさと孤独感を抱えながらも

私は”愛されていると信じたい”ために

 

寂しさと孤独感を

愛情と結びつけてしまった。

 

「愛とは、寂しくて孤独なもの」

 

それ以来、

私は寂しさと孤独が

とても大事なもののように思え

手放せなくなってしまった。

 

 

セラピーなどにおける

インナーチャイルドのワークでは

 

イメージの中で、

自分の中のこの子供を抱いて

感覚を共有する。

 

「寂しかったね、怖かったね」

 

その子の求めていた方法で

気持ちを共有し、癒してあげる。

 

それによってその子供は解き放たれる。

 

自分の中で引っかかっていた部分が解け

”作り上げた思い込み”が解けることで

現実的に変化が起きる。

 

私のこの場合は

寂しさや孤独感を手放し

愛とは、寂しくて孤独なもの”という

思い込みを開放する。

 

セラピーの趣旨は、

それによって今まで抱えていた

私の内面のトラブル

(人と良好な人間関係を築く抵抗感)

が薄まるだろう、というようなもの。

 

以前、このような方法で

赤子を癒していたが

まだ消えていなかった。

 

昨日も現れたのだ。

 

 

創造性の種

 

赤子が訴えているのは

寂しさや孤独感だけじゃないかもしれない。

 

そのことに、昨日気が付いた。

 

それは創造性であり

表現欲求だった。

 

気付いてほしいと訴え

泣きわめいていたのは

 

自分自身のもっと深い部分の

魂と繋がった欲求みたいなもの。

 

 

それを発現させる方法にも

どうやらたどり着けたよう。

 

無理なく抵抗なく

一歩を進められそうだ。

 

 

私の中の赤子は

ようやく泣くのを止めてくれた。

 

身体が足の先まで

じんわりと温かく

なんの不安もない。

 

むしろあるのは喜びで

特に何をしていなくても

(スーパーで買い物かごを持って歩いていても)

ひとりでいても

携帯がなくても

 

満足していて穏やか。

 

余計なものも欲しくないし

食欲もあまり湧かない。

 

派手なことをしなくても

私は私で居られる安心感がある。

 

地に足が付きながら

心が満たされているって

こういう感じなのかもしれない。

 

新しい感覚、ようこそ。

 

ペンネームを通して得たもの

 

私のペンネームは

半年ほど前、新たな試みとして作った。

 

文章を書くにあたって

反社会的なことも含め、

キワドイ事を書く気がしていたからだ。

 

自分(本名)から離れて

それまでの”現実”からの囚われを外し

思いっきりやってみたいと思って始めた。

 

その半年間の試みは

思っていた形には収まらなかった。

 

当初、思い描いていた

キワドイ世界を探求することには

もう情熱がなくなった。

 

*1

 

 

代わりに赤子に出会い

思考ではない、魂の私と出会った。

 

一度、自分じゃないものになって

ふたたび自分に戻ってきた気がする。

 

おかえりなさい。

 

そして、初めまして。

 

 

*1:(実は、少しあるんだけども、

 

 それは楽しみというか。。また別の話で。)