月のうろこを食べるへび

マトモじゃないわたしがマトモに生きようとする奮闘記。夢の記憶、どこかで見た景色、ふと感じたこと。思うままに書いていきます。

自分に在る時期

変化と二極化

 

変化が急速で

文章化が追い付かない。

 

二極化のテーマが

よく出てくる。

 

変化するものと

変化を拒むもの。

 

変化を拒むものは

ネガティブな意味に捉えがちだけど

 

それは彼らが

その場に留まることを望み

得られる体験を望んでいるからで

 

優劣でも善悪でもなくて

ただの選択。

(下記リンク参照)

 

嫉妬について 

 

「嫉妬」というテーマも

最近良く出てくる。

 

「嫉妬」という感情は

今の私の辞書にはなくて

私の中で、存在しないことにしてた。

 

でも、人間には「嫉妬」っていう感情は確かにあって

なんだろうな~、これ、っていう違和感の原因が

実は嫉妬だったんだ!

 

そういう出来事が続いた。

 

世界は自分の意識が作っているっていう概念で言うと

 

嫉妬って言う感情が自分の中で起こる場合は、

自分の満たされなさを他者に反映しているもの。

 

対して

相手から嫉妬が出てくる場合は

たぶんだけど

相手に対する配慮のなさの現れ。

 

相手をおろそかにしていた証。

感謝の足りなさ。

 

もちろん、

相手の課題っていう場合もあって

一概には言えないけれど

 

感謝して感謝しすぎってことはないんだから

まぁ、ちゃんと礼は尽くしましょうね。

 

って言われている気がした。

 

感謝って、ふとすると

すぐに忘れて慢心しちゃうけど

 

いちいち感謝しておりたいものです。

 

感謝を忘れたときは

さすが神様は見てるとよく言ったもので、

 

あなた、自分の事しか考えてないでしょ

って、忠告みたいな出来事が起こる。

 

上手くできてるなぁって、

いつもながら感心するわ、宇宙。

 

 

宮井陸郎 シャンタン - どうか他人を監視しようとしないで欲しい。他人に口出しするあなたは何様か?... | Facebook

 

質問
人々が相変わらずの古いゲームを何度も繰り返しやっているのを見ると、
私の目は、古臭くてうんざりしたものに感じ、私のハートは嫌気がさして
冷笑的になることがあります。
それは私が自分自身のゲームやトリックを、
ますます目にするようになったからだと思います。
そして、頭の中で狂わせるようなあなたの声が聞こえます。
「それでオーケーだ。
あなたはただ自分自身を受け容れ、愛さなくてはならない。
何も問題はない」
「ただ」ですって?
もしあなたがこの言葉をもう一度口にしたら、
私は悲鳴を上げると思います。
ゴールが存在すると思っていた時の方が、
私は幸せではなかったのでしょうか?
osho
質問はマ・デヴァ・アナンドーからだ。
これは意義深い。
この質問は、ここにいるほとんどすべての人のものだと言える。
耳を傾けなさい。
それはまさに、すべての探求者が
通り抜けなくてはならない状況を示している。
アナンドーは言う。
「人々が相変わらずの古いゲームを何度も繰り返しやっているのを見ると、
私の目は、古臭くてうんざりしたものに感じ、私のハートは嫌気がさして
冷笑的になることがあります」
どうか他人を監視しようとしないで欲しい。
それはあなたの知ったことではない。
彼らが古いゲームをやると決めたのなら、
古いゲームをやることを望むのなら、
古いゲームをやることで幸せなら、
それに口出しするあなたは何様か?
裁こうとさえするあなたは何様か?
絶え間なく他人を裁こうとするこの渇望は、落とされなくてはならない。
それが他人の役に立つことはない。
それはあなたを害する。
あなたを害するだけだ。
何であなたが悩まされることがある?
それはあなたとは何の関係もない。
他人が古いままでいたいのなら、同じ轍(わだち)の中を、
相変わらずのお決まりを動きたいのなら、それは彼らの喜びだ。
グッド!
それは彼らの人生であり、
彼らは自分達のやり方で生きる権利を持っている。
どういう訳か、私達は他人が独自のやり方を
持っているのを認めることが出来ない。
どうにかして私達は裁き続ける。
ある時は彼らを罪人と呼び、ある時は地獄に行くしかないと言い、
ある時はあれやこれやだ、犯罪者だと言う。
こういったすべてが変わったとしても、
今度は彼らが古いゲームをやっていて
「私はうんざりしている」という新しい評価になる。
何であなたが彼らのゲームにうんざりすることがある?
彼らがそうしたいのなら、自分のゲームにうんざりさせてあげればいい。
そうしたくないのなら、それもまた彼らの選択だ。
どうか他人を監視しないで欲しい。
あなたの全エネルギーは自分自身に焦点を合わせるべきだ。
あなたは自分自身を非難したくないので、ただのごまかしの為に、
他人をその古いゲームで非難しているのかもしれない。
それはつねに起こっている。
それは心理的なごまかしだ。
私達は他人に投影している。
泥棒はすべての人が泥棒だと思っている。
それは彼にとってはとても自然なことだ。
それが彼の自我(エゴ)を投影するやり方だ。
世界全体が悪なのだと感じれば、比べることで気分がよくなる。
殺人者は全世界が殺人者からなっていると考える。
それは彼の気分をよくし楽にさせる。
世界全体が殺人者からなっていると考えるのは都合がいい。
それなら彼は殺すことが出来るし、罪悪感を持つ必要はない。
良心の痛みを感じる必要はない。
こうして私達は、自分の中に見たくないものは何でも他人に投影し続ける。
どうかそれを止めて欲しい!
本当に古いゲームにうんざりしているのなら、
これこそが古いゲーム、最古のゲームだ。
多くの生に渡ってあなたはそれをやって来た。
自分の欠点を他人に投影し、気分をよくして来た。
そしてもちろん、それは大げさにしなくてはならない。
誇張しなくてはならない。
あなたが泥棒だとしたら、人々はあなたよりもすごい泥棒だと、
他人のイメージを誇張しなければならない。
するとあなたは気分がよくなる。
比べてみれば、あなたの方がずっとましな人間だ。
人々が新聞を読み続けるのはその為だ。
新聞はとても役に立つ。
朝早く、お茶も飲まないうちからあなたは新聞を待っている。
そして新聞には「ニュース」などない。
「新しいもの」などないからだ。
それは相変わらずの古いくだらない物事だ。
だがあなたは気分がいい。
どこかで誰かが人を殺している。
どこかでウォーターゲート事件があり、どこかでまた別のことがある。
どこかで誰かが盗みを働き、誰かの奥さんが
他の誰かと逃げてしまった・・・こんなことばかりだ。
そのすべてを見ることで、あなたは気が楽になる。
あなたはこう感じる。
「それじゃあ、私はそんなに悪くはない。
世界全体が堕落している。
私の方がずっとましな人間だ。
今のところ隣の奥さんと逃げたりしていない。
今のところ誰も殺してはいない。
それを考えることはあっても、
人々が実際にそれをやっているような世界では、
考えることなど罪ではないさ」
あなたは気分がいい。
そして気分がいい時には、あなたは同じままでいる。
どうか他人を見ないで欲しい。
それがあなたの役に立つことはない。
あなたのエネルギーを、観察を、自分自身に向けることだ。
そして観察には、何か途方もなく変容をもたらすものがある。
自分自身を観察するようになると、ものごとは変わり始める。
怒りを観察するようになると、ある日突然、
怒りが以前ほどのエネルギーを持っていないのに気がつく。
それはもうそれほど激しくはない。
その中の何かが死んでしまった。
自分自身を見守るようになると、
やがては否定的なものが死んでゆき、
肯定的なものがますます生き生きとしてゆくのを目にすることになる。
不幸は消え去りつつある。
至福が生の中に入って来つつある。
あなたはもっと微笑むようになる。
ときには何の理由もなく・・・ユーモアのセンスが生まれる。
見守れば、あなたは生をもっと陽気に受け取るようになる。
深刻さはますますそぐわなくなってゆく。
あなたはいっそう無邪気になる。
もっと信頼するようになり、疑うことはますます少なくなってゆく。
私は信頼がつねに尊重されるだろうとは言っていない。
いいや、それは要点ではない。
あなたはもっと騙(だま)されるかもしれない。
信頼すると、人はもっと騙され易くなるからだ。
だがたとえ騙されたとしても、それによって信頼が破壊されることはない。
実際、それは強められることさえあるかもしれない。
たとえ騙されたとしても・・・誰かがいくらかのお金を奪い、
あなたを騙したとしても・・・こんな風に思うだろう。
あなたは自分がはるかに価値のあるものを守ったのだということが分かる。
それは信頼だ。
そしてほとんど価値のないもの、お金がなくなった。
お金を守って信頼を失くすことも出来た。
その方がはるかに大きな損失だ。
なぜなら、お金だけで幸せを見出した者はいないからだ。
だが信頼のお陰で、人々はこの世の神々のように生きて来た。
信頼のお陰であまりにも全面的に生を楽しんだため、
人々は神に感謝を感じることが出来た。
信頼は祝福だ。
お金はせいぜい多少の安楽をもたらしはするが、
祝祭をもたらすことはない。
信頼はそれほど安楽をもたらさないかもしれない。
だがそれは、あなたに大いなる祝祭をもたらす。
さあ、祝祭に対して安楽を選ぶのはまったく愚かだ。
その安楽な生は安楽な死に他ならないからだ。
あなたは楽に生き、楽に死ぬことも出来る。
だが生の本当の味わいは、あなたが最上限、最大限に祝っている時、
あなたの松明(たいまつ)が両端からいっせいに燃やされている時、
初めて可能になる。
もしかしたらほんの一瞬かもしれない。
だがその強烈さ、その全面性、その全体性!
そしてこれは、観察によって初めて起こる。
観察は、変容のための最大の力のひとつだ。
自分自身を観察するようになりなさい。
他人を観察することでエネルギーを無駄にしてはならない。
それはまったくの浪費だ!
そしてそのことで、誰もあなたに感謝することはない。
それは報いられることのない仕事だ。
そしてあなたに観察される人は、誰であれ不快に感じるだろう。
誰も観察されたくはないからだ。
誰もがプライベートな生活を持ちたいと望んでいる。
いい人であれ悪い人であれ、愚かな人であれ賢い人であれ、
誰もがプライベートな生活を持つことを望んでいる。
干渉するあなたは何様だろう?
だからのぞき屋になってはならない。
人の鍵穴のところに行ってのぞいたりしてはならない。
それは彼らの人生だ。
彼らが古いゲームをすることを望みそれを好むのなら、
そうさせてあげなさい!
だからまず他人を見るのをやめて欲しい。
全エネルギーを自分自身へと転じなさい。