月のうろこを食べるへび

マトモじゃないわたしがマトモに生きようとする奮闘記。夢の記憶、どこかで見た景色、ふと感じたこと。思うままに書いていきます。

闇を抜けて光へ~光と闇の統合~

 

美しく深い闇を知る者たちへ

  

とってもタイムリーなメッセージが目に入りました。

 

ここでもまた「終わりと始まり」。

 

今の私には

とってもしっくりくるメッセージでした。

 

【美しく深い闇を知る者たちへ】

 

あなたがなぜ今回もここに来たかを思い出すのです。

 

あなたは美しく深い闇を知る者。

 

光を強烈にするためにあなたは闇へと身を投じてきました。

 

私たちにおいて光と闇の間というものはなく、そうです、2極ではありません。

 

ですので、あなたが今感じてる、または思考する分離感の強い光と闇のことではありません。

 

あなたは永きに渡り究極を知り得るために光では無いものを選択してきました。

 

闇は時に魅惑的で優美であり、美しいのです。

 

美しく深い闇を知れば知るほど、あなたはそれらを手放せなくなっていったのです。

 

そう、深く愛してしまい、闇をまとい、自分自身さえ見えなくしてしまったのです。

 

あなたは漆黒の闇。

 

そのように極を極めた魂は再び浮上し始めます。

 

重いエネルギーから、厚い層から、そして、何よりも自分がそれをおこしていることに気づき始めます。

 

それが目覚めです。

 

すべてのものが輝き始めます。

 

あなたが愛してやまなかった闇が本当には青が深く深く、極限まで多層に重なる青であったことを思い出すにいたるのです。

 

それは瞬間的に起こります。

 

そして、また、深い闇を知る者たちよ、あなたがなぜ、深い闇を知りたかったのか?

 

それは光を最大限にするためになのです。

 

光をより強くするためにです。

 

その光こそ今ここで必要とされるものです。

 

勇気を持ってあなたがあなたの光を受け入れなさい。

 

闇に隠れていることは心地よいでしょう。

 

すべてを誰かに明け渡して生きて行くことも可能です。

 

あなたは幾生にも渡りそんなことを繰り返してきたのですから。

 

天使たちの軍勢は今やあなたを取り囲み、闇の入る隙間はありません。

 

あなたがあなたのすべてを明け渡すのは光へです。

 

光への帰還です。

 

さぁ、ようこそ、おかえりなさい。

 

永い旅の終わりであり、始まり。

 

あなたの美しく深い闇を愛してあげなさい。

 

美しく深い闇を知る者たちへ|Amaranaのブログ

 

インドへは、

分離されたものを統合しに。

 

光と闇

男と女

善と悪

生と死

神と仏

体と心

 

長い長い、闇を抜けて

光へ。

新しい年に向けた切り替え

2016年の準備と始まり

 

昨日からまた、流れが変わった。

 

流れというか、

空間が変わった。

 

飛び込んできたメッセージ

 

毎年10月26日頃~11月8日頃は
翌年の空間との入れ替え時期

 

これから11月8日立冬を迎える頃まで
浄化の働きが強くなります。
 
それによって
必要な人は
プランの”書き換え”が行われます。

 

ふむふむ、なんかそんな気がする笑

<pいやいや、適当なんじゃなくて> 

本当にそうなんです 

終わりと始まりを象徴する出来事 

立て続けに起きている。 

先日訪れた熊野は 

「甦り(蘇り、黄泉がえり)の地」であり 

新しい出発の地でもある。 

 

f:id:code888a:20151101145228j:plain

f:id:code888a:20151101150026j:plain

 

そして私は

明日からインドへ。

 

「魂のふるさと」とも言われるインド。

 

私の人生で2回目、

5年ぶりの訪問。

 

そのころの自分の境遇と

今の自分の境遇も酷似していて

意図していないのに

「導かれている」感じがする。

 

実は熊野も今回で2回目、

7年ぶりの訪問だったから

 

調整期→熊野→インド→新しい始まり

 

っていう流れが

私の中で定番化してきた。

 

 

切替わりを表すお祭り:ハロウィン

 

昨日はハロウィンを

楽しんだ人も多いのでは?

 

さて、ご存知のとおり

ハロウィンは単なる仮想イベントではない。

 

起源には諸説あるが

大まかには

秋の収穫を祝い

冬(新しい一年)を迎えるお祭り。

 

つまり、もともとから

切り替えを祝うお祭りである。

 

「単なるイベント化して

宗教的な意味はない」なんて

まるで意味のない事のように揶揄されたりするけど

 

新しい年を迎えるために

今年に心残りのないよう

思いっきり仮想をして楽んでる

って考えれば

すっごく、意味深いんじゃないかな。

 

それに、思いっきり仮想して

街を歩くのが一般化するなんて

素晴らしいことだと思うんです。

 

「シャイ」と言われていた

抑制型の日本人にとっては

革命的な変化なんじゃないかしら。

 

もともと、日本人だって独創的で

創意工夫が大好きな民族性のはず。

 

それがいつからか

頭でっかちでガンジガラメになって

コレはいい、アレはダメ

って自ら行動を制限し

窮屈にしてきてしまったように思う。

 

そして、その窮屈さに

みんな気づいているのに

抜け出しかたが分からずに

「停滞感」におおわれていた。

 

 

身体が動けば、心も動くもの。

 

こういったイベントに

慣れ親しむことで

日本に住んでいるみんなの心が

どんどんオープンになって

 

多様性をありのまま受け入れながら

豊かな表現力で

独創的に創造していく

みんなになるといいね^^

 

男女別、才能の活かし方と磨き方~男女関係にも言えること~

男女の性質から見る才能の活かし方

 

男性と女性は

身体の作りが違っている。

 

ホルモンバランスも違うし

骨格構造も筋肉の性質も違う。

 

ということは、

内臓や循環器系の機能も

違うのだろう。

 

違うのは身体の作りだけではない。

 

物事の捉え方が違うし、

言葉表現の仕方も違う。

感情の流れ方や大きさ

興味や関心事など

心といえる部分にも違いがある。

 

そのため、

自分の才能を引き出し高めようとするときには

注意が必要だ。

 

仕事でも日常生活でも

男性に適したやり方(在り方)と

女性に適したやり方は

ベクトルがまったく違っている。

 

無理にでも突っ走るか

まず自分を満たしてあげるか。

 

つまり、

外へ向かい力の限り突き進むか

内側を満たし湧き出るものを形にするか。

 

これは

上手くいっている女性経営者さんから

教えていただいたお話です。

 

男性性の時代から

女性性の時代に入ったと言われる今、

この考え方はますます

必要になってくると思われます。

 

男性の場合

 

男性は、少し無理やりにでも

頑張ったほうがいい。

 

無謀な目標に見えても

本当に自分が望むものであれば

そこを目指して突っ走ること。

 

目指すところに行こうと

とにかく行動することで鍛えられ

強化されてゆく。

 

男性は、

自分を満たそうとして

安心出来る場所に長く留まっていると

力の使い方を忘れてしまうことがある。

 

 

女性の場合

 

対して女性は

男性と同じやり方を取ると

「頑張ってるのに上手くいかない」

状態になりやすい。

 

自分がどんどんすり減っていくし、

頑張っているのに評価されるどころか

むしろ周りからの評価が下がっていく。

 

そう感じるようなら

やり方を見直すべきだろう。

 

女性の場合は、

まず自分を満たすことを大切にしよう。

 

自分という器を満たし

その満たされた器から

こぼれ落ちる豊かさで仕事をする。

 

満たされた器の輝きで

必要なものを惹きつけ

 

こぼれた豊かさで

仕事をし、周りを養う。

 

上手くいく男女のバランス


教えてもらったことは

とてもしっくりきた。


私の経験から言わせてもらうと

上に書いたことは、

仕事に限らず

ごくごく日常的な

男女関係においても当てはまる。

 

男性は愛する女性を獲得し

養うために力が発揮されるし

 

女性は満たされている輝きで

男性からのサポートを引き寄せ

満たされていて初めて生まれる包容力で

男性を包み英気を養う。

 

まず、女性が自分を満たすことが

とても大事なんだけど

そこに引き寄せられた男性は

彼女から力を奪うのではなく

しっかりサポートして

さらに満たしてあげる気持ちが必要。

 

女性も

引き寄せられて来てくれた男性から

無理やり何かを奪おうとするのではなく

彼を慈しみ彼の中の力を養う気持ちが大事。

 

そんな関係の男女が

歳をとってもいい関係の

ご夫婦になるんじゃないかな。

 

お互い「クレクレ」している場合じゃないのだ。

 

まぁ、

どうしてもクレクレしたい時期は

おそらく誰でもあって

それはまだ準備が出来てない学びの途中だ

って考えれば、悪くもない。

 

クレクレしあって奪い合って

どろどろ修羅場して

で、気づくってのもアリだと思う。

 

心配しなくても

本当に欲しいものは

手に入るようになっているから

 

安心して

進んでくださいまし。

 

 

補足:「男性のサポート」は金品じゃない

 

念のため補足すると、

男性から女性へのサポートってのは

なにも金品与えて貢げって意味じゃない。

 

それが出来る(したい)ならすればいいけど

大事なのはどちらかというと心の方。

 

例えば、お食事お洗濯等の家事、

笑顔で居てくれること、

心配してくれる、気遣ってくれる毎日を

当たり前だと思わないことね。

 

感謝や愛情を

敬意をもって表現するのが

何よりも女性を満たす。

 

「察してよ」なんて言っちゃって

愛情表現を怠るのは

母離れ出来ていない未熟な態度だし、

 

「恥ずかしい」なんて言い訳で

表現から逃げるのは

もったいないとしか言えない。

 

不器用でもいいんです。

男性が

本心から表現してくれたなら

女性は自然と

何十倍、何百倍に膨らませて

返したくなっちゃうものですから。

 

 

 

ま、

わたし今、

パートナーいないけどね。

 

頑張れよ、

つーね。

 

あ、違った。

頑張るんじゃなく、

自分を満たす方に進むんでした。

 

苦しかったはずなのに

慣れてる方に

すぐ戻っちゃうよね。

 

少しずつ少しずつ

軌道修正しています。

二度と、誰かを失うことなんて。。臆病な私と記憶の不在

臆病な私:愛することへの恐れ

 

心から通じあった

誰かを失うことなんて

もう二度と

経験したくない。

 

人との関係性を築くことに

私が臆病になりがちなのは、

 

人に対してどこかで距離を置いて

他人ごとのように見てしまうのは、

 

愛することへの恐れから来ている。

 

もう一度アレを経験したら

私は「私」を支えきれず

すべてが崩れ去ってしまいそうで

とても耐えられない。

 

 

記憶の不在:この想いはどこからくるのか

私は、幸いにも

近しい親族や友人を亡くしたことはない。

 

齢80を超える祖母も

まだ元気にしている。

 

親戚や友人の中には

亡くなってしまった方もいるけど

 

年に1回も会わないくらい疎遠か

私が本当に小さい時のことだったから

そこまで衝撃がなかった。

 

(悲しくないわけじゃないけど

 彼らはまだどこかで生きている気がして

 失ったわけじゃないって思える)

 

つまり、何が言いたいかっていうと

「もう、二度と経験したくない」

と切に思いながら、

実はその経験の記憶がないのだ。

 

不思議な話だけど

経験したことのないものを

再び経験することを怖がってる。

 

失ったことがないのに

失いたくないと思っている。

 

では、この「失いたくない」想いは

どこから来るのだろう。

 

小学校の時に大好きだった先生が

転校してしまって悲しかった記憶はあるけど

(これはトラウマになった)

想いの根源は、もっと深くにある気がする。

 

すごく、すごく、

深いところの感情。

 

youtu.be

 

 

↑を見たら急に感傷的になって

思春期に戻ってます。

でも、今日はこれでいいのです。

感情の起伏を抑えると長期的には自由になる

感情を抑えることと発露すること

 

感情の起伏は

誰にでもある。

 

感情の起伏を抑えると

私はどうも窮屈で

身動きが取れなくなるような気がする。

 

でも、もしかしたらそれは

私の勘違いかもしれない。

 

感情を抑えるのが

問題なのではなく

 

その感情を無視して

なかったことにするのが

問題なのかもしれない。

 

感情に気づき認めたら

それを発露するなど

必要ないのかもしれない。

 

自分の感情の扱いを

掴み切れなくて

考えあぐねていた私には

素晴らしいメッセージだ。

 

松任谷由実さん、画家の下條ユリさん @yurishimojo との鼎談をしている時、ああ、なるほどなあ、と思うことがあった、ユーミンが、一時の自由を求めると、かえって不自由になる、という意味のことを言ったのだ。

 

たとえば、感情の起伏を発露すると、その時は「自由」に感じるかもしれないけれども、そのことによってかえって自分のやりたいことができなくなるかもしれない。そのことを、ユーミンは、「ブランド」という言葉で表現した。感情の起伏を超越した、長く培っていく、信頼のようなもの。

 

ユーミンは、以上のことを、立教女学院の後輩であるという下條ユリさんに対する先輩の「アドヴァイス」のような感じで言っていたのだが、凄い叡智だなと思った。桑原茂一さんは、ニコニコして聞いていた。それから、ユーミンは、「もっとも、いつか、全部憂さ晴らしして爆発しちゃうかも」と笑った。

 

感情の起伏を押さえて、「ブランド」を維持することで、長期的にはかえって自由になる、という叡智を、ユーミンはご実家の呉服屋という生業から学んだのだと、さらっと言った。

 

感情の起伏を押さえて自由になる昨日、桑原茂一さん @moichikuwahara の企画で、松任谷由実さん、画家の下條ユリさん @yurishimojo との鼎談をしている時、ああ、なるほどなあ、と思うことがあった、ユーミンが、一時の自...

Posted by 茂木 健一郎 on 2015年10月29日

 

 

人を突き動かすもの~世界遺産、熊野古道を訪れて~

「美しい景色を見ると心が洗われる」

 

景色は空気とセットで、

その場所の歴史、文化、エネルギーともセットである。

 

美しい景色を見ると心が洗われるのは、

視覚的に素晴らしいからだけではない。

 

美しい景色を見ているその瞬間は、

聴覚も嗅覚も皮膚感覚も刺激されているし、

空気や水などの身体に入るもの(味覚)、

さらには直感のような第六感も

その土地の影響を受けている。

 

つまり美しい景色は、

身体の細胞すべてに対して

威力を発揮していて、

だからこそ心も洗われるのだ。

 

熊野古道

 

先日、世界遺産*の一つである熊野古道を訪れた。

 

f:id:code888a:20151030005527j:plain

 

熊野周辺はもともと、伊勢よりも歴史の古い自然信仰の地。

 

そこで出会ったのは、

定年退職後に地元のホテルで働く一人の男性。

 

彼は熊野に生まれ育ち、

成人後は役場に就職。

 

この地に生き、長年の変化を知る人物でもある。

 

かつての熊野古道は、

過去の栄光など忘れ去られたように放置され、

石畳の上には数十センチも土が積もっていた。

 

紀伊半島の温暖な気候で育つ広葉樹の葉は

簡単に道を覆い尽くし、堆積してしまうのだ。

 

f:id:code888a:20151030012709j:plain

 

彼は土の積もった古道を放っておけなかったそうだ。

 

誰も賛同者がいなかったのだろう。

一人でコツコツと土を掘り、道を整備した。

 

一日に、距離にして2メートルずつ。

気の遠くなるような、地道な作業。

 

そんなことをして何になるのかと

笑う人もいたそうだ。

 

それでも彼は、

見えない力に突き動かされるように

作業を続けた。

 

そして十五年以上を経て、

彼の努力は身を結ぶ。

 

熊野古道

2000年に「熊野参詣道」として

国の史跡に指定され、

 

続く2004年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として

ユネスコ世界遺産*に登録された。

 

2015年の今では、

日本のみならず世界からも旅行者が訪れている。

 

その話をする男性はとても嬉しそうで

心からの喜びに満ちていた。

 

 

彼を突き動かしたのは

何だったのだろうか。

 

それは、認められたいとか

称賛されたいというような

個人のエゴ的欲求ではないだろう。

 

おそらくは

心から愛し信じるものを守りたいという

本能的な欲求、魂の目的のようなものだったに違いない。

 

 

*「紀伊山地の霊場と参詣道」は、

文化遺産における「遺跡および文化的景観」として世界遺産に登録されている。

 

おまけ

 

「これはねー、もともと丸い一枚の岩だったんだよねー。」

と説明するその男性。

 

岩が風化すると、一部が朽ち、

一部が剥がれ落ちて

写真のような形状の石が出来上がるんだそう。

 

f:id:code888a:20151030013733j:plain

 

 

おまけ2

 

東洋のスフィンクスと呼ばれる獅子巌(獅子岩:ししいわ)。

 

男性の話によると、1500万年前から姿が変わっていないとか。

 

写真の左側には尻尾もあったのだが、

今は国道が通っていて尻尾は無くなっている。

(国道が出来たのは昭和38年)

 

f:id:code888a:20151030020756j:plain

 

 

エンジェルナンバー525~変化、身体の記憶を書き換えること~

エンジェルナンバー【525】

 
今日のエンジェルナンバーは525.
あなたが経験している大きな変化は最善のものであり、事態はまもなく落ち着くと信じてください。 

 

大きな変化か。

 

身体の記憶

 

先日、かなり久しぶりに

カウンセリングとサウンドヒーリングの

セッションを受けてきた。

 

頭ではわかっているつもりなのに

身体が何かに縛り付けられているように

身動きが取れない。

 

感情は身体と結び付いていて

ずーん、と、身体の奥で重くなっている。

 

そんな感じがあった。

 

それは

変化や可能性に対する恐れから来ていて

大元は幼少期の悲しみやトラウマだった。

 

遡ると

両親への愛と理解し合えない寂しさ

報われない思いが

「愛は憎しみである」

「自分を後回しにして目の前の人の意思に合わせるのは相手への思いやりであり義務」

と変化して私の心と体にこびりついた。

 

大好きだった先生が不意に転勤した悲しみが

「私が大好きになると人は去っていく」

という思い込みを作り上げ私を支配し

 

姉から「自意識過剰」と言われた記憶と

その時の身動き取れない感覚や、言い返せない悔しさが

「自分の可能性を開こうとすると

 身体が硬直し意識は眠り思考が停止する」

という身体反射を誘発していた。

 

それらの思い込みを開放した。

癒着していた身体と言葉を切り離し

新しい感覚を与えた。

 

テレパシー的感受性

私はよく

考えすぎるとか

感受性が強すぎるとか

色々言われる。

 

自分にとって当たり前に話すと

ほとんどの人には伝わらず

時には難しすぎると言われるが、

未だに何故そう言われるのか

完全には理解できない。

 

かといって、

相手の波長に合わせて会話をすると

近付きすぎてしまうのか

やがて相手から軽んじられるようになるし

私が自分のペースに戻ったときに

急に距離を取られたと思われるのか

態度が急変したり

混乱した表情をされてしまう。

 

波長を合わせると会話がしやすいのに

どうやらみんながそれを

出来るわけではないらしい。

 

薄々気付いていたけど

本当は理解できていなかった。

 

波長を合わせるのは

会話の相手に対する敬意を表す

基本的な礼儀作法である、

くらい当たり前なことだと思っていた。

 

でも今まで何千回何万回と違和感を得て

誤解されて嫌な思いも散々して

どうやら本当に通じない人もいるらしい

ってのが、ようやくわかった。

 

嫌な思いをしてまで

相手に合わせようと我慢する必要は

なかったみたいだ。

 

私は子供の頃に純粋な気持ちで

人は無意識下で通じ合えていて

言葉や態度がどうであれ

本当はみんな全部分かっているのだと

思ってしまうところがある。

 

大人になった今でも

本当はそうだと

心の深い部分で頑なに信じているらしい。


でもどうやら、まだまだ

世の中はそうではないらしいのだ。

 

不思議だけど、

みんなが分かり合えてる訳じゃない。

 

だから、

私は私を信じて

出来ることをするだけ。


私は私を真っ直ぐに生きたらよい。



ようやく頭(思考, 脳)レベルじゃなく

体レベルで理解できてきたかも知れない。

 


おまけ

 

初めて聞く話かもしれないから

補足すると

身体の細胞ひとつひとつは

感情の記憶を蓄える。

 

それぞれの感情が

特定の臓器に溜まる*こともある。

 

身体は思考もする。

特に腸に至っては

脳ミソよりもニューロ細胞**の数が

多いとかなんとかで、

脳の指令を受けずに思考しているようだ。

 

腸が第二の脳と呼ばれるのは有名な話。

 

(*関連書籍多数。感覚的経験的な実録が大半だが、医学的に証明された話もあるかもしれない。)

(**記憶頼りに書いてるので違ったらごめんなさい。調べれば類似の文献出てくるはず)